Piet Hut: Computational Astrophysics

計算天体物理学

Piet Hut 高等研究所 Princeton, NJ 08540, USA email: piet ATSIGN ias.edu

訳 小久保英一郎 国立天文台理論天文学研究系 〒181-8588 三鷹市大沢 2-21-1 email: kokubo ATSIGN th.nao.ac.jp

要旨

現在、天体物理学における大規模シミュレーションは理論や観測と同じように 重要な役割を担っています。 ここでは大規模シミュレーション業界の抱える問題について述べたいと思いま す。

本文

天体物理学は歴史的には純粋な観測科学でした。 物理学や化学と違って天体物理学には実験室が存在しませんでした。 つまり、天体物理学の実験をすることは不可能でした。 この状況はコンピュータの発明によって変わりました。 現在ではサブミクロンサイズの星間塵から観測可能な宇宙全体を含むような宇宙論 的スケールまで、天体物理学の様々な分野でコンピュータを用いた詳細なシミュ レーション(模擬実験)をすることが可能になっています。

伝統的に天体物理学者は理論屋と観測屋の2種類に分けられてきました。 1960年代になってコンピュータが使えるようになると、理論屋によって彼らの 「紙と鉛筆」の計算を加速する手段として、天体物理学のシミュレーションが 行なわれるようになりました。 しかし、60年代にすでに人の脳よりも100万倍速く、現在では1兆倍以上も速い コンピュータの圧倒的な計算能力は、可能な計算の質と種類に大きな変化をも たらすことになりました。 

「紙と鉛筆」の計算と現在の大規模シミュレーションが、それらが観測と違う のと同じように、互いに違うものであることは、ますますはっきりしてきてい ます。 コンピュータ端末の前に座っているシミュレーション屋と観測屋を見て、どち らが観測結果を見ていてどちらがシミュレーション結果を見ているのかを判断 するのは大変難しいでしょう。 天体物理学シミュレーションの仮想現実は今や詳細になり、その結果は本物の 観測結果のように見えるです。 そしてその結果、シミュレーションのデータ解析はしばしば、少なくとも観測 のデータ解析と同じくらい複雑だったりします。

今、全世界的に天体物理学業界は大きな問題に直面しています。 それは学究的社会の構造の変化が遅い、そしてさらに変化の必要性を認識する のにも時間がかかるという問題です。 今でも、学究的社会の上層部の審査委員会によってなされる多くの決定は、最 も年配の委員の個人的な経験に基づいています。 そして多くの場合、彼らは自分で詳細なシミュレーションを行なった経験があ りません。 彼らはもしかしたら微分方程式を数値的に解いたことがあるかもしれません。 もしくは何か数値計算ををしたことがあるかもしれません。 しかし、そのような簡単な数値計算と大規模シミュレーションには天と地ほど の違いがあります。 この違いは例えるなら、壁に写真をかけるためにハンマーを使うことと、実際 に家1軒を設計し建築することの違いのようなものです。

このシミュレーションに対する理解の時間差の結果、天体物理学の教育では理 論と観測が重要視され過ぎていて、同じように重要視されるべきシミュレーショ ンが無視されています。 学生が理論や観測を学ぶためのいい教科書は豊富にあります。 しかし、学生がシミュレーション技術を学べるような教科書はほとんどありま せん。 さらに悪いことに、大規模シミュレーション用ソフトウェア開発に携わってい るとても優秀な天体物理学者でさえよくただの技術屋だとみなされてしまって います。 彼らなしには今の天体物理学は進めることは難しいのにです。

1982年に Ken Wilson が素粒子論でのラティスゲージの大規模シミュレーショ ンの研究でノーベル物理学賞を授賞しました。 このとき私たちはついにシミュレーションにも、何世紀にもわたり物理学や天 体物理学で純粋理論に払われてきたのと同じ敬意を払われる時代が来たと思い ました。 しかし、それから20年以上たった今でも、状況はあまり良くなっていません。 今こそ、シミュレーションとシミュレーション屋が真に値する称賛を得られる べきです。 そして同時に適当な基盤施設と予算的支援を得られるべきではないでしょうか。

日本は今、他国と同じもしくはさらに悪い問題に直面しているようです。 ヨーロッパやアメリカと比べて日本では、大規模シミュレーションを行なう天 体物理学者に対しての援助が少ないように感じます。 私は日本の天文学社会が天体物理学における大規模シミュレーションの重要性 をよく理解し、シミュレーション屋がシミュレーションを続けるのを支援して 欲しいと思います。 そしてこれからも日本のシミュレーション天体物理学者が科学的成果を上げ続 けてくれることを期待しています。 

英語要旨